醜い「無用な誤解」という権力

ごきげんよう。とても深い内容の記事を朝見ました。

「権力者の横暴」についてどう思いますか――DMM亀山会長に聞いてみた #亀山敬司 #DMM http://bunshun.jp/articles/-/6711

業界の重鎮が開催するパーティーを欠席してしまい、仕事に影響がないかと気になってしょうがないという相談者に対し

「今の日本には、君が心配するような絶対的な権力者なんていないし、気に病む必要なんてないよ。」
と。
さすが亀山さん。という相談に対する回答ですね。
まさにその通りだとおもいます。

ちっぽけながら僕も、サラリーマン時代はあちこち立てついて怒られたり、会社を立上げてからは異業種の新規事業や規制業種への参入などでいろいろ空気を読まずに動いてみたものの僕が鈍感なのかたまに呼び出されてチクチク言われたりはするけれど、そんなに「絶対的権力」を感じたことはありません。もちろんそれは僕が小物だからということもあるけど、かといってこの質問の相談者さんのように、この世の中が自由で伸び伸びしているとも思わないですよね。むしろ年々息苦しくなっている感じはしませんか?
「権力者は居ない」のにこの「正体不明の息苦しさ」はどこから来るのかなと逆に思ってしまいます。
おそらくこれは「今の日本には絶対的な権力者がいない」ことが原因なんだろうなとも思います。

とんちのようになりましたが、どういうことか。

この四半世紀はガバナンスやコンプライアンスという言葉を聞かない日はないです。これらが重要なのは言わずもがなですが、ガバナンスやコンプライアンス自体が目的となった時、我々に必要なのは「結果」より、「手続きの正当性」ということになります。

しかし、実は「手続きの正当性」というのは性善説で監査するか、性悪説で監査するかで「正当かどうか?」は結構変わります。
物事の推進には時間とコスト的制約があるので、ある人物が「真っ当である」と評価するのはプロセスの正当性が如何に担保されているかが重要なのですが、これが実際の運用上は「まともな人がやってるのだから真っ当だろう」という前提で監査でやれば「手続きは正当性がある」という結論になるし、「こいつは何か悪いことをやってる奴だ」ということを前提で監査すれば「手続きの不正」を見つけ出し、場合によっては前者からみると「悪を作り出す」のはさほど難しいことではありません。

つまり結論ありきで英雄も犯罪者も創り出すことが「手続き重視型」になることでむしろ可能になってしまったということではないかと思ったりします。
しかも、その結論を好き嫌いで決める「絶対的な権力者」が不在になっている中では、誰がどこでいつ誰に足を掬われるか分からないし、今持ち上げられてもいつ誰のやっかみや嫉妬で陥れられるか分かりません。
そういう状況を皆が知ってしまうと、ベストプラクティスとしてこういうことを言う人が増えます。

「無用な誤解を避けるために振る舞いについてよく考えた方が良いよ。」

これこそが絶対的な権力者が居なくなった現代における「最大の権力」なんじゃないでしょうか。

権力者のご機嫌取りなんてクソみたいなものですが、白黒がはっきりしている分楽な部分もあり、権力者が居る組織の中では権力者の機嫌がよいうちは支配下にある人間は皆「結果」によって平等に自由を担保できます。

しかし、権力者不在の組織は正体不明の「無用な誤解」に怯え、結果よりも手続きに終始して、自分を守る為の「結果」を生み出す機会を得られないまま不安を抱えることになります。

我が国でもそうですが、ガバナンスを強化しコンプライアンスを重視してきたこの四半世紀で、結果を出す成長企業は皆強力な権力を1人に集約したオーナー企業となってしまいました。

最近では、国家ですら独善的ともいえるような元首が台頭しているようです。
小は会社から大は国家まで、「絶対的な権力者から解放された自由」を社会的枠組みとして推進した結果、
我々は皮肉なことに自由どころか正体不明な不安を抱え、そこから逃走する為に結果的に「強力な権力者」を望んでいるのかもしれません。

散々新しいことのように書きましたが、この辺の話しはご存じの通りマックスウェーバーやエーリッヒフロムの受け売りです。

さて、冒頭の亀山さんのアドバイスは「あるのかないのかわからない権力者に怯えるより、いい仕事をするように頑張ろう」というものでした。
まさに王道。僕もまったくもってその通りだと思います。

しかし、「権力者が居る方がマシ」な状況の方が多くの人を苦しめています。
その中で権力者以上にやっかいな「正体不明の権力モドキ」に悩まされない為に「いい仕事をし結果を出すこと」と並行して大切なことが3つあると思います。

1.公私を問わず振る舞いに表裏や隠し事を作らないこと。
2.すべての行動についてログやエビデンスを精確に残すこと。
3.他人の信頼に甘えないこと。

先にも述べましたが、結果よりも手続きの正当性が重視されるということは、即ち「結果の如何に関わらず、気分や空気で人を陥れることが可能である」ということです。大阪で消防士が勤務中に自販機で飲み物を買って飲んでいるのに対して、如何なものか!というクレームがあったそうですが、まさにこれです。「あいつらは仕事もろくろくせずに給料をもらっている!」という前提で監査すれば、自販機で飲み物を買っているところを見つけ手続き上の問題を指摘するのは容易です。絶対王政であれば皇帝が「余の消防士達が飲み物を飲むのが何が悪いのか!」と一喝すれば終わりですが、手続きの正当性が重視される社会では、この消防士がどれだけ火を消したのか?といった結果に関わらず処分することが可能になります。権力者が居ないとこの状況をもって上位者は皆に「無用の誤解を生まないように気をつけるように」と言うことになります。

1.公私を問わず振る舞いに表裏や隠し事を作らないこと。

権力者の寵愛に頼らず、自由に生きる為には常にこういった悪意を前提とした結論ありきの監査を受ける覚悟が必要であり、その際に振る舞いに表裏や隠し事があると確実に命取りになります。
炎上野郎こと田端信太郎さんが先日20歳の自分に手紙を書いていましたが(https://www.ism.life/contents/503)、彼がサラリーマンでありながら自由に振る舞う為の保身術として「実名と顔出しをインターネットに晒し続けることは自分にとって自分が作れる最大のセーフティネットとも言えるんだ。美学だけじゃ人は生きていけないが、これは自制と保身に繋がるから、肝に銘じておけよ。」と述べているのは流石だと思いました。彼は正体不明の「空気」から身を護る最大の術として自らを晒し24時間アカウンタビリティーの塊のようになることを決意しているのです。
僕もそうですが彼と個人的にやり取りをしたことがある人達は、彼がネットと他の場で違うことを言うことはないことを皆保証するのではないでしょうか。
彼はそうやって第三者の監査を常に受け続けることで、ある局面では結果を出す出さないよりも危険に晒される原因となる自らの「手続き上の不備」を常に避けるようにしているのです。
これはとても有用なノウハウの一つではあると思います。

2.すべての行動についてログやエビデンスを精確に残すこと。

これも重要性が高まってきていると思います。
多くの人は善良な人間として自分の持ち場で頑張っていることと思いますが、「俺は何も恥じ入ることはない!」と声を大にして叫んでも、それが簡単に肯定されるのはあなたがこれまでの振る舞いを鑑みて概ね善良であるという上位者や組織が認めている事によって成立している事がままあります。これを誰にも担保されず自分の力で0から証明するのは実は並大抵のことではありません。24時間あなたが間違いなく如何なる法律や倫理や規範に照らしても問題ないことを自分ひとりで証明する必要がないというのは、実は組織や誰かの権力の庇護によるものであるという認識が必要で、権力不在でも自らの安全と自由を担保するためには自らの振る舞いや行動が正当であるというエビデンスやログ(記録)を出来る限り沢山用意しておくことです。
今記録の改ざんなどで世の中すったもんだしてますが、後から用意も変更もできないものですから、普段から電子的でも紙でも何でもよいのでいつどこで誰と何をしていたのか記録しておくことが重要です。

3.他人の信頼に甘えないこと。

「権力に媚びず、頼らず」という美学を持つかどうかは個人の自由ですが、権力者にどう立ち向かうか?という時代遅れの美学より、権力不在の状況下で如何に自らの安全性を担保するか?ということの方が重要であると思います。これは取りも直さずそんな中であなたを信頼してくれる人というのは、本来膨大にかかる「自らの正当性を担保する為の努力」が、「まかせるよ」の一言でショートカットできる本当に貴重な存在であるということです。
信頼されて事に取り組むというのは実はコスト構造上大きくゲタを履かせてもらっているということであり、
これを当たり前のものと勘違いして甘えていると必ず脇が甘くなり、信頼を失い、そして膨大なツケを払うことになります。
「他人に信頼してもらうことは本来払うべきコストを払っていない」という認識を強く持ち、決して甘えず常に信頼してもらえている相手にもアカウンタビリティー(説明責任)を果たすことが重要だと思います。

思うがままに散々書き散らかしましたが、僕なりのベストプラクティスは結局のところいつもの通りです。

今日も持ち場でがんばりましょう。