カネでは動かない人の賤しさについて

ごきげんよう
ネットを見ているとなにやら物騒な話を最近目にしました。

僕が目にしたのはこの二つの記事です。

スタートアップにおいて創業メンバーや幹部を、事業を行う過程で粛清することが避けて通れないという話のようです。
とてもリアルな内容で僕も何度も見てきましたし、なんなら手を下して来た方です。特にこれらの話にどうこう言うつもりもないのですが、なんかすっきりしないところがあるので少し蛇足とは知りつつエントリを書いてみようと思います。

僕は起業する。事業を起す。とはある種、法の範囲の中で「神」として振る舞う行為だと思っています。
よく例えに出すのですが「ある山で野生動物保護の見地から鹿を保護したところ増えすぎてしまい麓の田畑を荒らすようになった。なので地元の猟友会に協力してもらい農作物の味を覚えてしまった鹿を撃ち、駆除する。」といった話は聞いたことありますよね。

僕はこれほど酷い話はないと思うのですが、この山において人間は「神」として振る舞っているわけです。
自分が思う「最適状態」の為に鹿の生殺与奪を欲しいままにしているわけで、こんな酷いことがもし許される者が居るとしたら「神」だけだと思います。
起業も同じ局面はよく出てきます。
起業家が思い描いたビジョンの為に他人を誘い入れ、そして自分が思うようにならなければ去ってもらう。そういう状況のことです。

もちろん神と見間違える、いやもはや鬼神ともいえる強さを持った起業家達も居ます。
しかし、多くの起業家は哀しいかな人間である為、「神」の振る舞いをする中で覇気を削がれ、苦しみ、そして最悪気が狂ってしまいます。
自らが可愛いと思って増やした鹿の目を見ながら鉄砲の引き金を引き、恨みと失望の涙を流しながら倒れてゆく鹿を見て「もうこんなことはしたくない。」と思う。
それが当たり前の人の心というものです。
しかし、判断を先送りにし、問題から逃げれば被害が拡大し、そしていずれ自らが倒れ周りにもより大きな迷惑をかけることになります。

これは有能ではあるが組織に反したものを規律に沿って裁くという、所謂「泣いて馬謖を斬る」といった話とは違います。
「人に合せて事業を作るのではなく、事業に沿った人を貪欲に配置していく必要がある」という原則を人事において実行するというのは、斬られ、撃たれる方から見たらどう理屈をこねたって出鱈目な話だし、幾ら「仕方なかった」と涙を流されたところで自己憐憫にしか見えないという話です。
そこで「経営者というのは孤独なんだ。それでもやらねばならない」という結末だと、事業を成功させる確率は上がらないと思うし思考停止だと思うのですよね。
僕が思うのは、もともと神の所業なのだから、それを一人で抱え込んでトップが事業に集中できなくなるのはもったいないなと。だからこういう罪深い事こそボードメンバーやNo2と分担できればより事業は立ち上がりやすく、成長するのではないか?と。つまり事業の成長の為に人の心を持った平凡な人間が分担して「神」の所業をなすというやり方もあるのではないかということです。

よく目を凝らして見てみると、もはや神をも恐れぬ経営者という人も一人で事を成しているわけでなく、人間が神たる振る舞いをするうえでトップの影として常に傍にいる人間を従えていることに気づきます。
孫正義に宮内謙、永守重信に小部博志といった具合です。
そして彼らは番頭として、能力として事業を成長させるための外部からの幹部起用があった場合は、場合によっては一旦後ろへ下がり、招き入れた彼らが去ればまたその留守を代打として預かります。
逆説的ですが、トップが自分の戦略実行の為、積極的に幹部を容赦なくスゲ替えることが出来るようになるには、何をやっても必ず傍にそれについてくる子分を従えるのが一番の近道です。そして、体制を維持するというのは自分が最後孤立しないことが重要です。日和見がちな構成員は必ず結束が固い方に転び、理屈がいくら正しくとも反体制派は最終的には敗走します。
同時に事業を成長させるためのNo2と、トップと運命を共にするNo2は同一である必要はないし、後者はトップの意向に沿わない者、能力の不足する者、環境やトレンドの変化に応じて必要のなくなった者に引導を渡し、トップのビジョンの遂行の為の犠牲となる人々の目をまっすぐに見すえ粛清を実行し、恨みを引き受ける必要があります。

欧米では「共同経営」というやり方もあるようですが、僕はこれは感覚的に日本では難しいのではないかなと思っています。
それは、僕ら日本人的な感覚の中には「カネでは動かないぞ」という気持ちがよく出てくるからだと思います。
「カネでは動かない」というと美しい話と思う人が居ますが(まぁそういう美しい話になることもありますが、、)これは酷い裏返しの面があり、「自分が1万円もらえるボタンと、気に入らない奴が1,000万円損するボタンどちらか押すならどちらを選ぶか?」という場合、「気に入らない奴が1,000万円損するボタン」を押す人がかなりの数いるということです。

「カネでは動かない」ということは僕は必ずしもキレイなことではなく、ある意味賤しい気持ちの裏返しでもあると思います。
こういった気持ちが心の奥に棲むことは仕方ないとしたら。。そういう人を構成員の中に抱える限り「共同経営」というのは成り立ちません。
「共同経営」というのは個々人がカネという利害を共有し1円でも得する限りお互いにカネを最大化できるよう協力するという関係だからです。
先の大戦で敗れたのは日本人に西欧的な「合理性」が無かったからだとする話もあるそうです。難しいことは解りませんが、僕は少なくとも単純な損得勘定で合理的に協力できず、事業の成長で足元がもつれるが如き様子を沢山見て思います。
強固な組織をベンチャーで日本人中心に作るには「親分と子分」というヤクザ映画のような振る舞いが一定以上の合理性があるのではないかと。

かつてのベンチャーの雄、もはや伝説となっている故大川功氏のCSKの一号社員は、湯川英一という方だったそうです。我々アラフォーの人達の間では有名な方。そうドリームキャストの時にCMに出てみんなを笑わせていたセガの湯川専務です。
アスキー西和彦さんが書かれた「ベンチャーの父 大川功」という書籍の中で、常に大川功さんの心の側近であり続けた湯川さんが「自分の役目はオヤジ(大川功会長)が煩わしい諸々から一時でも解放されてリラックスして意思決定できるように笑わせるのが仕事だと思っていた」と言った旨の発言をされていました。
ベンチャーが組織成長を成す上で、苛烈なトップの心の支えたるそういう古参人材の生き方、また能力に応じたポジションだけでなく、組織の精神的支柱としてのそういった人物を序列は前後してもきちんと処遇する組織、そして自分の役回りを弁えトップを支えるポジションを引き受ける古参側近、そういった構図は「シリコンバレー発のスタートアップ組織論」だけでなく今尚、現実的且つ有用ではないかと思います。

やはりカネを絡めながら血の通った人間が集まって組織を作る以上、キレイごとでは周らないのは事実ですが、同時に人と人の感情を超越した諸々をトップが一人で背負い込むことが成功の近道であるとも思えないな。という話です。
まして「カネでは動かないぞ!」という人達が多いなら尚更です。

例によってまとまりのない話になりましたが、やはり僕が思う我々のベストプラクティスはこれですね。

今日も持ち場でがんばりましょう。