最期に見る夢をいくらで買いますか?

ごきげんよう
本当はビッグデータとビジネスについて書こうと思っていたのだけれど、高野さんのお子さんを初めて保育園に預けるエントリを見て、どっちでも良くなってしまった。
(娘の保育園の入園式だった - 言いたいことがなにもない http://mtakano.hatenablog.com/entry/2015/04/01/235117
この瞬間の切ない感じ。本当に貴重だし、決して忘れることのない本当に価値がある瞬間だと思う。

最近、各方面でマンションの大規模修繕についてちょっとした話題になるということがあった。

その議論の過程で、住民の合意が取れず大規模修繕も建て替えも不可能になってしまったマンション内でのやりとりを公開されている人がいた。

(大規模修繕も立替えも出来ないまま沈殿してゆく中古マンションの現場より - 市況かぶ全力2階建 http://kabumatome.doorblog.jp/archives/65824496.html

大規模修繕というのは、自分の住処であり、多くの人にとって一番大きな資産であるはずのマンションの価値を維持する為の投資で然るべきお金を支出して資産価値を保全するのは合理的な事であるのだが、個々人によって「合理的な事」が異なるから住人が集まって話し合ってもまとまらない。という話である。その中のトンデモ住人の主張を見て思う所があった。

「私は10年後は生きてないから死んでからにして」

ゴーイングコンサーン(継続企業の前提)という言葉をご存じだろうか。
企業が将来にわたって無期限に事業を継続することを前提とする考え方のことで、企業は始めるにも経営するにも、この考え方を礎としている(少なくともそういうタテマエになっている)。
一度おっぱじめたら、その速度はどうあれ成長を続け、利益を拡大し、資産(企業)価値を増大させることを永遠に続けることが大前提なのだ。
企業は死なない。少なくとも死なないように頑張り続けることが共通認識なのだ。

しかし、人は逆だ。必ず死ぬ。誰しも知っている事実だが、なら、死ぬことを前提に生きるとき、時に「死なないことを前提にした企業や資本主義の枠組みの中での合理性」が期限付きの人間には必ずしも合理的でないことに最近になってやっと気づいた。

そして、自分の期限に気づいた時に取る行動は、一般的に考えられている合理的な行動とはまったく異なることがある。

「どうせ10年生きてないからマンションの修理にお金を払うのは嫌だ」

「コツコツ貯めた金だけど、どうせ動けるのも今の内なのだから、ファーストクラスで旅行に行く」

ゴッホの絵は自分が死んだら棺桶にいれて焼いてくれ」

別に人は何のために生きるのか?みたいな哲学的な問いがしたいわけではない。

言いたいのは、社会通念上適切な経済合理性をもった意思決定を最後までする大人でいる為には、自分自身が永遠に続いて行く前提、つまり「人間としてのゴーイングコンサーン」が必要なんだなという話だ。

そして多くの人にとってそれは息子であり、娘であり自分が死んだあと残される家族だ。

社会通念で結婚や、家庭を築くことを押付けてきた時代から、自分で「意思決定」して家庭を築くことを選択することになった現在、先行きの見え辛い世の中と厳しい景況で家庭を築くことがハードルが上がっているように感じる人も増えているようだ。「冷静に考えて意味を感じられない」という若い人の意見も目にする。
若いうちは、自分が死ぬことを意識することは少ないだろう。だからある意味ゴーイングコンサーン気分で目先の経済合理性を追求できる。
問題は、実は自分は不死ではないと認識した時だ。もしその時にかつてあれだけバカにした「経済合理性のない人間」に「合理的に」変化したくなければ、やはり、本当の意味でのゴーイングコンサーンを手に入れる為に家庭を築くこと、子供を持つこと、または死して自分が続いていくと信じられる大切なものを持つことが必要になって来るだろう。

僕の父はリタイア直前に肺癌で死んだ。

父の最後の数週間は可能な限り病院で付き添い、そして最期は看取った。

彼は年金を一円ももらわなかった。
彼は死ぬまで会社に行った。
彼は残された妻の為に保険や不動産の戦略を用意していた。
彼は死ぬまでに、しかるべき裁判をし、身内の揉め事をすべて片づけていた。

彼は最後まで冷静で合理的な意思決定とコミュニケーションをした。

苦労ばかりの人生を理不尽に終えなくてはならない父は、なぜ最期まで合理的で居られたのだろう?

父は病床で大阪で近くに住む孫ではなく、東京に居た僕に会いたがった。

僕は会社を無理を言って休ませてもらい、父の傍らで仕事をしながら付き添った。

父は一つ一つ自分が死んだあとのことを話した後、「お母さんたのんだで」と言った。

抗ガン剤の副作用は酷いらしく、意識がもうろうとする中、夢を見ると言っていた。

僕と弟が小さかった時の夢らしい。

覗き込む僕の顔を見て、

「おおきなった。ほんまに」

つぶやくように言った。

今は思う。最後まで彼が合理的で居られたのは、僕や弟に自分が続いて行くこと「ゴーイングコンサーン」だということが大きかったのかなと。

父に見えていたのが、どのような夢だったのか息子達を育てる今は分かる。

ちいさな小さな息子を恐る恐る沐浴させるとき、
息子がはじめて歩いたとき、
入園式で名前を呼ばれてここ一番で小さな声でしか返事が出来なかったとき、
会社に遅刻しそうになりながら息子を自転車で全速力で幼稚園に連れて行ったら、片方の靴を途中落っことしてしまってたとき、

僕が小さかった頃のこんな瞬間を父は死ぬ直前に夢に見ていたのだろう。(まぁ彼は仕事ばかりでイクメンではなかったが。。)

自分の最期に見る夢はどんな夢がいいだろう?
その為に払うコストと労力は安いか高いかどっちだろう?

子育ては大変なことばかりだし、手も時間もお金もかかる。
でも最期に見る夢は、死ぬ直前に作ることも買うこともできない。
何億持って居たとしてもだ。

そう考えると本当に子供がかける手間やお金なんて安い買い物だなと思うし、はっきり言える。
「苦労しながら子供を育てることには経済合理性はある。」

日々苦労しながら持ち場で頑張って子育てをしている人達は、必ず勝つ投資をしているのだ。
その日が来ない人は居ない。死なない人間は居ないのだから。

僕も多くの子育て世代と共に今日も持ち場で頑張ろうと思う。
いつか見る最期の夢の為に。