未成熟な産業を探して飛び込むという安定

さて、ごきげんよう

我が家の一番上の息子は15歳。もうすぐ高校受験です。今日は確か願書を学校に持って行ってるはず。
仕事をしながらも、これからの10年が彼の人生を決めることになると思うとどういうアドバイスと支援をすればよいかといつも考えてしまいますね。

僕はネット企業で仕事をしているし、その前もシステムエンジニアとして働いていました。
思い返せば、自分の人生の方向を決定したのはやはり15歳の時のパソコンとの出会いだと思います。
年初のエントリーでは運だけでここまで来たと言いましたが、コネも金も学歴も持たずに父から逃げるように上京した僕がなんとか生きている理由がもし他にあるとしたら、コンピューターを他の人よりほんの数年触るのが早かったという小さなアドバンテージを雪だるまのように一生懸命膨らませつづけてきたことくらいだろうと思います。

15歳の春、中学生の僕が欲しいものはパソコンでした。
理由は明快で、プログラミングを覚えて「ハッカー」になりたいと思ったからです。
15歳のその年「スニーカーズ」という映画をなんばの映画館で見て、中学生の僕は「コレや!」と思いました。
めちゃくちゃカッコいい。凄腕のハッカーのことをウィザードと言うが、まさにそれです。
「コンピューターを自由自在に操れればすごい力になるんだ。」というまさに中二病精神を刺激され、単純な僕は「まずはパソコンだ!」となりました。
しかし当時パソコンは今では考えられないくらい高価なものでした。子供のお年玉なんかでは到底買えない代物。
僕が部屋の壁にポスターのように張っていた欲しいパソコンのチラシは、確か486SXというCPUで40万円、100MB20万円(それでもめちゃくちゃ安くなった)ハードディスク別売りとかでした。
もちろん到底買えない。
親父は以前も書いたがとても厳しい人で僕にとっては恐怖以外の何物でもなかったので、そんな高いものを買ってくれなどと言ったら殺されるのは確実でした。
でもどうしても欲しいので進路決定の時期に勇気を持って父に高校はバイトがOKの高校に行きたいと言いました。
「なんでそんなに金が欲しいんや?」と親父は聞きます。
僕は恐る恐る「パソコンが欲しい。プログラミングがしたい。」と口で言い、(あとちょっとHなゲームもしたい。)と心の中で言いました。
あっこれ死ぬパターンやな。。と思ったら、父は思わぬことを言いました。

「おまえ次の休みから仕事手伝え。」
父の指示は絶対のなので、次の週末から僕は父の車に乗せられ、いろいろな場所に連れて行かれ仕事の手伝いをすることになりました。

仕事というのは、父の勤めるノンバンクが貸し付けたり、リースしている中小企業や個人病院のうち、支払いが滞った所に行って医療機器や事務機器を無理やり引き上げる仕事です。
最初に親父が入って行き、時に怒鳴り声なども聞こえるのを耳をふさぎながら合図があるまで入口の前で待っていて、その後、軍手をはめて重い機械を運びだしクルマに積み込みます。

車に積んだ沢山の機械は会社の裏に野ざらしで積み上げていました。

僕「これ、、売ったり、使ったりせえへんの?」
父「一回使うたら、もう売れへん。そこに置いとけ」
僕「使わへんのやったら、別にあの人らのところから持って来んでもよかったんちゃうん?」
父「あのな、、まぁ、、ええわ。そういうもんとちゃうんや。とにかくそこに置いとけ。」

父は無表情に言いました。

そんな手伝いを何度かした後、ある日、仕事帰りの父が僕の部屋に来て「車の中にパソコンがある。あれお前の部屋に入れて、使えるように勉強しとけ。」と言われました。
僕はびっくりするのと同時に飛び上るほど嬉しくなって、すぐに車のトランクを開けに行き、そこにあるタバコのヤニでまっ茶になったパソコンとモニターを僕の部屋にニヤニヤしながら運び込みました。
「PC9801」とパソコンには書いてありました。もちろん本体の横には「資産管理番号」というシールが貼ってありましたが僕にとってはどうでもいいことでした。

僕にとって初めてのパソコン。それから、ずっと僕はパソコンにかじりつくようになりました。
もちろん、父の仕事の手伝いは続きましたが、引き上げよりも請求書発行が主な仕事になりました。とにかくまずは請求書を一生懸命作ってプリンターで印刷していました。
その頃まだインターネットなんて知りませんでした。
もちろんパソコン通信というのはあるのは知ってましたが、電話代がかかるようなことは出来ませんでした。

その後、元々算数すら怪しかった僕は大してプログラムが上達することもなく、南大阪の片田舎で1人パソコン雑誌を見ながらすこーしだけパソコン使える青年になりました。
今考えても1995年からの5年間くらいはウィンドウズ95とインターネットの普及でトンデモな勢いでパソコンが進化しましたが、まだ大学生でキャッチアップしている人は多くはありませんでした。地方の三流大では尚更です。
卒業時は就職氷河期で一番厳しい年と言われましたが、就職面接で「ブラインドタッチできます!」みたいなことを言う人が普通に居た頃に、自分のWebサイトを持って居て、ママゴトみたいなプログラムが書ける僕はなんとか就職先も見つかりました。
しかも念願の東京でのエンジニア勤務です。入社した後から分かったことですが、2000年問題対応の兵隊としての滑り込み採用でした。

結局、なんとか滑り込んだ大会社でしたが、安泰とは程遠く、あっという間に会社ごとリストラの目に合ったのは以前書いた通りです。
(製販一体型企業は強い人を育てられるのか? 前編 http://d.hatena.ne.jp/grand_bishop/20141209/1418132030 )
しかし、いろいろありながらも、なんとかこうやって僕は生き残っています。

それもこれも「ITという産業」。「Webという産業」が拡大を続けてくれたおかげに他なりません。

自分には特別な才能も能力もありませんし、器用な方でもありません。それでも生き残れたのは整理してみると
「所属する産業が拡大し雇用が拡大したこと。」
「その産業がまだ成熟する少し前に飛び込み、他の人より少しだけ先に知識を得たこと。」
「スキルやポジションが陳腐化する前に得た知識や経験を利用して他の産業やポジションに移ったこと。」
「決して自分の内面に目を向けたり、自分探ししたりせず(何も出てこないから)、ただひたすらに市場を見て自分の居場所を探してきたこと。」
が要因であると今考えれば思います。

親としては当然ですが息子には安定して豊かな生活を自分の力で送って欲しいと思います。苦労はしてほしくありませんからね。
だとすれば、15歳の息子にこれから安定した人生を送れる考え方を教えるとしたらなんだろうと考えたとき自分から出てきた答えはこれです。

「可能な限り未成熟な産業に早期に飛び込み、参入タイミングだけで最初に作ったアドバンテージを失わないように走り続けること。」

息子は一昨年、開校前のISAK(インターナショナルスクールオブアジア軽井沢 http://isak.jp )のサマースクールに参加しました。
ここは妻が見つけてきたところですが、調べたところ元々共感していた同年代であるライフネット生命の岩瀬社長が設立の橋渡しをしたというのを見たので興味を持ってチャレンジさせました。
次世代のリーダーを育成することを目的とした日本初の全寮制のインターナショナルスクールだそうです。
世界中から子供たちが集まったそうですが、日本人では公立中学校から参加したのはうちの子だけ、海外からの参加者の中にはボーディングスクール(全寮制の寄宿学校)の生徒も多かったそうです。
意識と実力の差にショックを受け帰ってきた彼のいくつかの感想の内、彼も僕も衝撃を受けたのは「あいつら(他の生徒)鬼のようにMacbookを使える!ヤバかった。」という話でした。

もはや単純なネットやITの世界は既に成熟してツール化が進んでおり、長期で見たらこれから息子が生き残っていくためのスキマはもうないかも知れないな。と僕は思いました。

しかも、そんな彼らのような意欲能力の高い子供たちに対し、ISAKはリスクテイクの重要性とリーダーシップを教えようとしています。

昨年秋の開校に際し、東大、スタンフォードMBAという輝かしい経歴を持つ代表理事の小林りんさんが引用されたのは思わぬ人の言葉でした。

それはCSK元会長の故大川功氏が遺した言葉。

新しい産業には、必ずその予兆がある。
その予兆を逃さずとらえ、
これを命がけで
事業化しようとする人に対して、
天は、時流という恩恵を与え、
そして使命という社会的責任を負わせるのだと思う。

(引用:未来のチェンジメーカーはこの学校から生まれる 「ISAK」サマースクールから見えてくる次世代リーダーシップ教育 http://diamond.jp/articles/-/40523?page=4

僕が記憶している昔の大川会長はピカピカのエリートが感銘を受けたと公言するような経営者という扱いではなかったはずです。
どちらかというと株券に自分の顔を印刷するようなカネカネカネの下品で自己中心的なアクの強い人物のような扱いをメディアではされていた記憶があります。

しかし、今、その言葉がこれからの少年少女たちを導く力強い言葉として輝きを増している。

さて、、大変な時代になりました。優秀な人たちが保守的になり成熟した産業で能力を競い合ってくれてこそ未成熟な産業に僕ら中途半端な能力の人間が生き残る余地が生まれます。
しかしこれからはその新しい産業の予兆をとらえ飛び込んでくるエリートも増えてくるでしょう。

それなら彼らより1歩先、いや半歩先でも構わない、そういう兆しがあるところにさらに突っ込んで行かないといけないと息子には言わなければなりません。

その予兆とはなんなのか? 僕ももちろん目を皿ににして探してますし、自分の会社の舵取りがありますからいくつか思い当るものはあります。
でも、彼には自分で見つけてもらいたい。もしかすると僕より彼の答えの方が正しいかもしれませんしね。

さて、例によって長い話になってしまいましたね。

まずは息子は受験が上手く行ってくれればと思います。月並みですがそれが親と言うものです。

僕にできるのは日々の持ち場の仕事を頑張る背中を見せることと、今後彼が芽がありそうなことに興味を持ったらそれとなく支援を行うことくらいです。

僕が15歳だったあの日、タバコのヤニだらけのパソコンを拾って来てくれた今は亡き親父のように。