持ち場で頑張ることを誇りにしている人の話

ごきげんよう
たにやんさん(@t_taniyan)からツイッター経由で話題を振ってもらいました。

総合商社で一般職の事務をしている女性が総合職の女性に「事務職は楽でいいわね」とイヤミを言われた。
モチベーションが下がるので、どうすれば誇りをもって働けるか?
という質問に対して、健康社会学者の河合薫先生は以下のようなアドバイスをされているようです。

1.会社や肩書を誇りとするのは「偽りの誇り」でそんなものは自分の評価でなく勘違いである。
2.上司やお客さんなど自分が提供しているクライアントに評価してもらうことは、誇りに気づく近道で、それを素直に頑張る原動力にすべきだ。
3.市場の価値と仕事としての価値は別で給料の多寡で誇りを構成しても意味がない。

概ね、僕もこの先生の意見には同意なのですが、いやはや会社というのは難しいですね。
能力相応の仕事、安定した雇用、一定の給料を提供した上にどうやら「誇り」というやつを提供しないといけないようですね。

この「誇り」というものは何か?ということなのですが、「プライド」とか「矜持」とは少し違うニュアンスのような気がします。
記事内でも他者との関係性の中に見出しているようです。「バカにしてくる総合職の女性」とか「認めてくれる上司」とか、先生自身のCA時代の自分の仕事に誇りを持てた体験談も同僚がかけてくれたふとした一言であったようです。

他者との関係性の中で「誇り」に気づいたり、「誇り」を必要にすることは組織が結果を出す仕事をする上で非常に大切なことです。
「誇り」は「モラール(士気)」に密接に関連しており、組織化して戦略的に運用することで大きな効果を期待できます。
また、組織にとってのメリットだけではなく、結果の出やすい働き方にもつながり働く人のキャリアにとってもプラスになることが多いと思います。

とはいえ、、前出の事務の女性に「誇り」を与えてあげることはできるでしょうか?というと、見る限りなかなか難しいのではないかな?とも思います。
なぜなら、彼女は今の仕事にそこそこ満足をしているからです。その上で「誇り」をよこせというのはなかなかの要求だと思います。

先生は、イヤミを言う総合職の女性が会社や肩書を誇りにするのは「偽りの誇り」であると断罪されていますが、そういう意味では、事務職の女性も日々の業務を卒なくこなすことの評価を過剰に要求し「誇り」を提供しろと言っているのもまた「偽りの誇り」ではないでしょうか?
現場での業務改革などを行うと新しい業務プロセスの導入やシステムによる効率化に抵抗勢力となるのはこの手の過剰に甘やかされた環境にいた現場社員です。
僕は与えられた持ち場で頑張ることに誇りを持つというのはあくまで組織全体のアウトプットを最大化する為の機能として自分を位置付け、他人のアウトプットも含め最大化できるように常にチャレンジと改善を行うことだと思います。
場合によっては自分の仕事を自分で葬るような改革も進んでやるべきですし、それが組織にとって必要なことなら厭わないという現場人としての迫力こそが誇りとなるべきだと思います。
そういう人は確実にどこでも通用しますし、高く評価されます。

「持ち場で頑張ることが大半の人にとってのベストプラクティスである。」と僕が思う理由でもあります。

しかし、我慢できない人が多いのも確かです。そしてそういう人に限って不満をぶちまけたり他人の努力を声高に否定して仲間を増やそうとします。
渋滞に嫌気がさして車線変更を頻繁にしてるうちに気が付いたらさっきまで後ろに居た車に追い抜かれてるような人生の人も少なくないので、そういう気持ちになることもまぁわからなくはありません。

企業における最強の現場人材とは戦略に則って計画の困難さに関係なく徹底的に実行をし利益を最大化してくれ、場合によっては自分で自分のクビを落とすくらいわけない人です。

「持ち場で頑張る」ということは基本的に多くの企業の全体戦略の一環であり、単に何も考えずいつものやり方を踏襲することとは全く別のことだと僕は考えているつもりです。

この記事の河合先生のCA時代の体験談と同様、僕にもそう思うようになったエピソードがあります。

僕が会社員として就職した90年代後半は就職氷河期でバブル後景気が上向く様子もない頃です。僕もなんとか仕事にはありつけたものの先行き不安な中の社会への船出でした。
そのころ僕がもぐりこんだ働き先はグループ全体では800億円という創立以来の巨額の赤字に苦しんでいて、経済紙などでもかなりネガティブなことを書かれていました。
建設関連だったこともあり、長引く不況と公共工事の激減によりこの状況は構造的なものであると記者は書きたてていました。
駆け出しのペイペイだった僕はそれを見て、自分は完全に負け組の選択をしてしまったんだなぁと思い、勤めて1年もしたら転職することばかり考えていました。

当時僕はエンジニアとしてプログラムを書きながら業務チームと連携して基幹システムを改善するのが仕事でした。
まぁ毎日の仕事は至って地味で、巨大な基幹システムや会計システム、販売代理店向けのシステムの仕様書もない化石のようなプログラムをこじ開けては修正したり、パッチをあてたりするような仕事でした。
会社はグループ全体で兎に角危機的な状況らしく、本社の蛍光灯が数本に一本しか点灯せず、夏場も17時でエアコンが切られそれでなくても古いビルの中は、蒸し暑く、薄暗くなっていて社会人としてまだ駆け出しの僕は、なんだかみじめな気分になったものです。

しばらくして、僕はタスクフォースと言われる事業再編のプロジェクトのシステムサイドから支援するチームに投入されることになりました。
そのチーム で、僕らが普段話したこともないような雲の上の経営企画や役員と契約したらしいコンサルティング会社のコンサルタントと仕事をすることになりました。

僕がタスクフォースに投入されたのは決して優秀だったからではありません。単に僕が会社に一番長く居たからです。
元々文系なのにコンピュータに詳しいフリをしてエンジニアとして入社した僕は他の人の能力に付いていくにも必死な状態でしたのでマシン室によく寝泊りしてましたから、遅くまで働くコンサルタントの御用聞きとして先輩達に差し出されたわけです。

僕の主な役割は、彼らがこの会社の再生の為の戦略に必要なあるべきシステム像を描き出す為、社内の現行システムを説明したり、いろいろな部署に案内する役割でした。
考古学者にジャングルの中の遺跡を案内する原住民の少年。言ってみればそういう役割。

そこからの数年間はありとあらゆるコンサルティング会社のコンサルタントと仕事をしました。
所謂トップティアファームと言われるような戦略コンサルティング会社からビッグ5系の会計系のコンサルティング会社(当時はエンロン問題の前)、個人のコンサルタントまで本当にいろんな人が出入りしていたと思います。

そして彼らはとてもかっこよく見えました。
高そうなスーツを着て、いつも賢そうな横文字を使って話をする。年齢はさほど変わらないのになんだか自信にあふれているように見え、沈みゆく船から逃げ出すこともできず言われるがままに仕事をしている僕と違って、次々と新しい仕事場で活躍しているように見えました。

ある時、僕の2、3歳上のコンサルタントを連れて、北関東の工場に行くことがありました。
向かう電車の中で、雑談をしました。
彼は代々木上原のマンションに住んでいるらしく家賃が高いけど仕事で遅いから仕方ないとボヤいていたのですが、僕の手取り給料と同じくらいの家賃の部屋に住んでいることの方にビックリしてしまいました。
僕は食堂の230円のランチに並び、ゴキブリの出る独身寮に寝る為だけに帰る生活をしていたのに。
能力が低いのは分かっていたけれど、ここまで差が出てしまうのかと。。
自分も自分の会社も負けている。ここから逃げ出さないといけない。でも逃げ出す力もない。

同僚たちも自信を失ってるように見えました。腕が立つ人や、高学歴の人の中には転職するものも多くいましたから。

僕はそれすらできませんでした。元々今の仕事に就けたことすらラッキーなくらいでしたから、今逃げ出して再就職に失敗でもしようものなら故郷の大阪に帰らないといけなくなるかもしれないと思うと、父親の怒る顔が脳裏に浮かび足がすくんで何もできないまま時が過ぎてしまいました。

プロジェクトも中盤になり、たまたまチームの飲み会で先の代々木上原に住む若いコンサルタントの上司の方と話す機会がありました。

僕は、同僚に聞こえるくらいに自分の会社やシステムの悪口をここ最近聞きかじったり、張り切って買った経済雑誌仕入れた付け焼刃の知識で言いまくりました。
「戦略がない。」「事業の選択というやつが。。」「優秀な人が流出している。。」「欧米のトレンドでは。。」etc...
普段一緒に仕事をしている同僚や若いコンサルタントは、皆相槌をうっていたのだけれど、その上司の方は一通り酔っぱらった僕の話をうんうんと聞きながら、ポツリと言いました。

「私はあなたたちを心底尊敬しているんですよ。」
「会社は一人ひとりの社員が苦しい目標にあえて挑むことで力を合せることでものすごい成果を上げます。あなたの先輩方、上司の方々は偉大なことを成してきた。今はちょっと風邪をひいてるようなものです。」
「必ず良くなります。お互いの持ち場で頑張りましょう。」

ちょっと待ってくださいね。
彼は高そうなスーツの懐から手帳を取り出して、さらさらと何かを書いて僕にくれました。

「機会があればこの論文を探して読んでください。あなたがさっき言っていた戦略とやらの元になったCKプラハラードの論文です。そもそも彼の理論の多くはあなた方の会社を研究して書いたのですよ。」

手帳を破った切れ端には「CKプラハラード ストラテジックインテント」と書いてありました。

その後、ストラテジックインテントを基にして書かれたというCKプラハラードとゲーリーハメルのコア・コンピタンス経営を読んでみて見て驚きました。

確かに僕がボロクソに言った自分たちの会社のことが書いてありました。欧米企業の「研究対象」として。。
できる範囲のことをうまくやるような小利口なだけの戦略ではなく、経営から現場のコピー取りまで一貫して取りつかれたように野心的な目標に取り組む「ストラテジックインテント」がこの資源もないちっぽけな極東の島国の会社が成長し生き残ってきた要因であるという分析でした。

僕はとても恥ずかしい気分になりました。
この本を教えてくれたあのシニアのコンサルタントから見て、僕みたいな大した実力もないのに文句ばかり、大局もそれに連なる自分の持ち場も直視しようとしない踏ん張りの効かない人間こそがこの会社の苦境からの再生の邪魔になってるのではないか?
もちろん何に注力すべきか?を選択するのは戦略かもしれない。
でも少なくとも彼は戦略のまずさを横において現場のせいにして弾劾したり、嘲笑したりはしませんでした。
彼は戦略を司る立場のプロとして「あなたたちを尊敬している。」と「持ち場で頑張るから、お互い持ち場で頑張りましょう。」と言ってくれました。
彼はプロでした。



戦略的な意図を理解した上で、一人ひとりが持ち場で頑張ること。

立派な会社を転々することでもなければ、カッコいいスーツを着ることでも、ものすごい肩書でこけおどしをすることでもない。

自分の仕事に誇りを持てないのは勉強が足りないからだ。
自分の仕事が空しくなるのは社会にとって、会社にとって、自分にとっての意義を頭がちぎれるまで考え抜いていないからだ。

戦略的であることと持ち場で頑張ることは対立概念ではない。

考え抜いた上で自分の強みを磨き自分の持ち場を全うしているか?

人の持ち場を羨んで立ちすくむ暇があったら、自分の持ち場が全体像のどのピースなのか理解する努力をしよう。
そして勉強している間も持ち場の手は止めず踏ん張ろう。

同期の集まり、メディアの煽り、成功者のマウンティング。
耳をふさいでいても向こうから入ってくるような意見にいちいち不安になることはない。

器用じゃないならなおさらだ。

そう思うようになりました。



その後苦しく長いプロジェクトとリストラを含む痛みを伴う企業改革は進み、グループはV字回復を成し遂げることになりました。

僕はというとシステム開発はノンコアビジネスであるということでグループ再編の波にのまれグループを籍としては去ることになりました。
とはいえ、「中の人」から「外の人」となっても一貫して同じ仕事場で7年程いろいろなプロジェクトをやりました。
自分で自分の墓を掘っていたとは思いませんでした。かつて僕にプロとしての誇りを教えてくれたあのシニアコンサルタントと同じくプロで居たいとと思っていたつもりです。
そして7年目の春、いろいろなプロジェクトが一段落した所で、ひょんなことから起業に参加することにしました。

もう僕の誇りは看板ではないと思えるようになっていました。

僕は華やかな仕事はしたことはないけれど、どんなエリートに会っても堂々と言えます。
「僕は一人でやるより二人、二人でやるなら三人でやる方が好きですし。右向けと言われれば右を向き、左に飛び込めと言われれば左に飛び込んできました。その方が結果につながるからです。」
「そこが僕の持ち場ですから。」

自分にとって割がいいか悪いかは関係ありません。
それが僕の誇りだし、何を言われてもびくともしません。


今日も持ち場で頑張ろうと思います。それ自体が僕の誇りだし、唯一の価値ですから。
誇りが持てる仕事だから頑張るわけじゃない。
そこを持ち場として頑張るから誇りが生まれるのだと思っています。