訳知りオジサン達の2極化論法は分析じゃなくてただの宗教

ごきげんよう。今日もみなさん持ち場でがんばっておられるだろうか。
僕もがんばっているよ。例え置物と言われても持ち場を守るのが僕の仕事だからね。

ええと。ブログはずいぶん間があいてしまったね。
今日は最近なんとなくもやもやしている事を書くよ。

アラフォーの僕から見て同年代から結構年齢が上の論客の方のマーケット論の中で、人の趣向を2極化して読み解こうとしすぎて、今の時代これだ!と言ってる話があんまりリアリティなくなってるという流れ。
なんかやっつけだなぁと思うんだよね。

例えば、
「ファッションはユニクロのように機能性とコストパフォーマンス重視の人たちと、一部のトップブランドなどのような世界観に価値を感じる人たちの為の趣向品に分かれている。」
とか、
「湾岸のタワーマンションに住む人たちのように立地や利便性を買っているだけの合理的な人たちと、地ぐらい(土地自体のブランド性)や地域コミュニティを鑑みる人たちのように土地への愛着がある人に分かれている。」
とか、
「国内自動車市場の好調なセグメントを見ても、車を道具として見るだけの軽自動車と、車自体に趣味性を反映させるラグジュアリーカー市場に分かれている。」
いうやつね。

こういうのは、供給サイドで設定したレンジ(階層)をいかにも階段を上るように消費してくれなくなった原因を追究していく中で無理やり編み出したこじつけで、
「経済学者が設定するような合理的人間」と「経済感覚ではなく感性で生きているアーティスティックな趣味人」にどんどん分かれているというような話は分析らしきものをする側、それを読む側の「スッキリ感」優先の論だなぁといつも思ってしまう。

あと、それでも例えば若者の消費などに関して考えたら説明がつかないことが多くなってきて、このどちらかのはずなのに消費自体をしないのは「若者は金がないからだ」という話で片づけようとする論も目にする。
これに至ってはそれっぽいデータとかくっつけてるがひどいやっつけ議論な気がする。

あたかも人類の趣向が変化していることありきのような2極化論だが、着目すべきは、サービスや商品の品質が急速に上がり、価格が急速に低下したことでより、同じセグメントの中では普及版以上のスペックを望まない層を大量に生み出してしまった構造の方だと思う。

「欲しいものが買えない」なんてのはもっとナンセンスで、「安くいいものが買える」世の中になり満足しちゃった人が多いという話の方がまだしっくりくる。

市場で「最低限」とされる品質の向上がこの20年で急速に進む中で、当然、全員が無限のハイスペックを求めた競争に参加し永遠に追及し続けるという人物像の設定の方が不自然で脱落者(普及版商品やサービスで満足しちゃう人)が出てくるのは当たり前の話である。
子供の頃から、ファミコン欲しい、ドラクエが欲しい、ミニコンポが欲しい、CDが欲しい、マンガ全巻欲しい、パソコン欲しい、バイク欲しい、車欲しいとずっと追うモノがあった僕らより上の世代が自分の理解できる感覚をベースに現実の生活者像を捻じ曲げてるんじゃなかろうか。

「デザイン性を気にしないユニクロを買う人」
「運転性能や居住性を必要とは考えない軽を買う人」
「ライフスタイルの洗練やコミュニティは不要と考える湾岸タワマンを買う人」

なんて居ないと思うし、

「機能性を全く気にしないファショニスタ」
「燃費を無視したラグジュアリーカーを欲しがる富裕層」
「都心への距離や利便性はまったく気にしない古くからある住宅地住民」

も同様にリアリティがない。

安易な2極化で生活者像や若者像を理解した気になり、リアリティがないターゲットユーザー設定だと、変な商品やサービスを作ってしまうし、逆に潜在的なマーケットを見逃してしまうこともあると思う。

まして、このご時世にデザインvs機能とか、合理的価値vs情緒的価値みたいな対立構造を頭の中で作って理解しようとするのは「逃げ」だと思う。

そういうことを会議室でしているから、今更掃除機のマーケットをダイソンやルンバに獲られたりするのではないか?

ネット上の記事を中心にした印象なので、わかり易いものが好まれるのでこういう論が好まれるのかもしれないが。

頭にスっと入って来て「へぇ〜なるほど」と思う論理構造はあってる間違ってるよりも「へぇ〜」と思わせること自体が目的であることが大半だ。
大概、まず本人が信じたいものが先にあるパターンで、これはどちらかというと分析というより宗教の世界のレトリックだ。
で、、そういうありがたい説法を最近はよくネットで見るなぁとそういう話。

さて、今日は月末、僕は持ち場の仕事が山積みで少し現実逃避してしまったよ。
ではそろそろ持ち場で今日もがんばるとするよ。