モノの価格はデフレに、精神の価格はインフレになっている

さてごきげんよう

とあるツイートが流れてきた。

もともとはどうやら特ダネというテレビ番組でそういうインタビューがあったようで、それを見た設定上年配の方のアカウントが上記のようにつぶやいて、「あたりまえだろ!」と若い世代の方が反論して世代論争になっているようである。

思い出したのが、先日ある中堅企業の剛腕で鳴らす年配の社長さんの他愛のない相談内容だ。

内容はというと

「今期調子が良かったので、若手幹部数名に自分からの個人的なプレゼントで腕時計をやろうと思うのだが、それとなく聞くと現金がいいと言う。なんともつまらん奴らだ。君らの世代はそんなもんかね?」

という話だった。僕は面白いなぁと思わず心の中で笑わずにはいられなかった。

実はこの話を社長さんから聞く、ちょっと前に、この会社の僕より1世代若い(82世代)の役員さんと飲んだ時に、

「普段ケチな社長が腕時計なら何が欲しいかと聞いてくるので、不審に思いながらも言わないと機嫌が悪くなるので『パテックフィリップのノーチラス(最も安いモデルでも270万円〜)』と言ったら、『空気読め!オメガ(30万前後)とかどうだ?』と言われた。」
「中途半端なモノをもらって一生恩を着せられるのも迷惑だし、中途半端な金額なら現金の方がありがたいし、現金じゃないなら要らない。」
「自分は自分の給料以上の利益を会社に納めていると自負している。プロフィットシェアであればキャッシュであるべきだし、この上、不要なモノを渡されて感謝の涙を流せとは相変わらず強欲にもほどがある。」

と聞かされていたのだ。

なるほど(笑)と大きく頷いた。

我々団塊Jr以降の生まれてこのかた「物質的には豊かだが万年不景気」な世代にとっては、モノの価値は慢性的なデフレに見舞われており、逆に不安定な環境を生き抜く為の精神的負担はもはやお金で癒やすには相当な金額が必要でインフレ進行がひどい。

先のツイートにあった奢られる1万円のステーキ(という拘束)より3000円の現金(という自由)の方が価値が上になるのは自然なことだ。

であるから、ステーキだから、食べ物だから、1万円だからというのを掘り下げても「個人の価値観」という話になってしまい、重要なインサイトを見落とす。

これは後に出た役員さんの話も似たようなもので、後々「あの時、腕時計までくれてやったのにこの恩知らずが!」とか「この間、時計やっただろ!」みたいなことを言われるような関係性は30万程度では割に合わないと考えているのだ。

くれるっていうならありがたく受け取っておけ!というのはあげる側の理屈であって、もらう側の自分に選択権のないものをもらうということを受け入れるという精神的な負担の価格がかつての貧しくなんでも欲しかった時代とは違い飛んでもなく跳ね上がっているのではないか。

欲しいものは並んででも欲しいが、要らないものはタダでも要らない。まぁ要するにそういうことなのだが、時にあげる側はこの精神的なインフレに気付かず昭和の「物価」、、ならぬ「精神価」で「目下のものにモノをもらってもらい、涙を流して喜んでもらう」という精神的充実を買おうとして盛大に滑る。

この感覚はマーケティング上においてもとても重要で、しばしばプライシングやキャンペーン景品の設計を間違っている企業を見るにつけ、あぁ、ずれている人が意思決定したのだなと思う次第だ。

モノの価格はどんどん、モノ自体の価格から離れている。

おまけにモノの価格はデフレに、精神の価格はインフレになってるものだからギャップが顕在化した時に驚くのも無理はない。

前出の役員さんがいい例だが、昭和と違い給料が右肩上がりに増えなくなり、実力で稼ぐしかなくなった世の中を受け入れた者達に、「浪花節を売ってくれ」と言ったら、「意外と見積もりが高かった」というだけなんじゃなかろうか。

やはり、以前したこのツイートの世界なのだと実感した次第だ。