「会社が消えた日 三洋電機10万人のそれから」と三洋と共に逝った父の話

会社が消えた日 三洋電機10万人のそれから

不覚にも読みながらボロボロと大粒の涙が出てきてしまった。

第十章 転生 「離職者再生工場」の可能性――ベビーバギーを作る生産技術者

の章でもう涙で読み進めることが困難になるほどだった。
いろいろな気持ちが交錯してのことだ。

三洋電機は知っての通り一時は2兆円の売上高があった大手総合家電メーカーの一角であったが、経営が傾き、ゴールドマンサックスや三井住友銀行を中心とした金融機関の管理解体を経てパナソニックに吸収され完全に解体されブランドも消滅した。
10万人居た社員はパナソニックで残務を処理する9000人を残し、散り散りバラバラとなりリストラの憂き目を見た。

著者はこの日本の基幹産業の一角を占めた巨艦があっという間に沈み行くさまを当事者たちの証言と共に「あの時何があったのか?」を生々しく記し、またバラバラになった社員達のその後を追いその後の人生を記している。

僕が涙をこらえられなくなった十章では、三洋電機の生産装置技術者だった浜田昇治氏のその後を追っている。
浜田氏は、三洋電機の生産装置部門ごと日立に切り売りされ転籍、群馬に単身赴任、その後、リーマンショック後にさらに退職勧奨を受けて58歳で退社し、地元の関西に戻ることになる。
そこでたまたま紹介されて、モノを作れるなら何でもやろうと自社のPB(プライベートブランド)に力を入れようとしていた子供服販売の西松屋チェーンに入社する。
浜田氏は面接を受けるまで、西松屋チェーンを産業用の鎖を作ってる会社だと思っていたそうだ。
西松屋では、1980円のベビーバギーを作れという難題にチャレンジし、見事に作り上げる。しかも、自分の理想を追求した2980円の上級モデルも密かに企画し、そちらの方が商品化されることになる。
商品化されたスマートエンジェルという名前のベビーバギーは10万台の大ヒット商品となった。
http://www.24028.jp/product/original/buggyfunneo.html
電機メーカーの設備技術者が、新たな活躍の場を見出したストーリーである。

このスマートエンジェルは我が家にもある。軽くてコンパクト、そしてとっても手頃なこの西松屋のバギーは頻繁に沖縄と東京を子供と一緒に往復する僕ら家族にとっては頼もしい外出の見方だった。
安かろう悪かろうではなく、体格のいい息子が乗ってもビクともしない上に、マクラーレンやクイニーなど舶来ベビーカーよりもコンパクトで本当に良くできていた。
那覇空港では預けた荷物を待っていると、回転台にいくつもいくつも同じベビーカーが出てきてどれが自分のか分からなくなったこともあったほどで大変なヒット商品だとは知っていたが、これが三洋電機を退職された方が作っていたとは知らなかった。

2010年に癌で亡くなった僕の父は三洋マンだった。
父の仕事場は金融子会社という傍流ではあったが、本体籍の社員で三洋という会社は家族的な会社だったのか子供の頃から僕は三洋マンの息子として育ってきた。
大阪にはパナソニック(松下)、シャープという大きなメーカーがあり、小学校に行くとメーカーとその系列の社員の子供達が必ず居る。
僕のクラスにもお父さんが松下やシャープの子供も居て、お互いに家の家電製品を自慢しあったり、羨ましく思ったりしていたものだ。
僕の家にはベータで取った僕の運動会のテープが今もあるし、パナの息子の家に行っては最新のコンポを自慢されて悔しい思いをしたり(僕の家にはおしゃれなテレコというラジカセしかなかった)、シャープの息子の家に行ってはツインファミコンにド肝を抜かれたもんだった。
夏休みには淡路島や白浜の保養所で大きなSANYOのロゴが書いてあるプールで遊ぶのが家族行事。プロ野球の三洋オールスターゲームも何度も見に行ったものだ。
そして家中すべての電化製品は三洋製だった。

父は非常に僕には厳しい人で、僕は子供の頃からよくぶん殴られて怒られたり、正座して説教を定期的にされていた。
中学を過ぎる頃には口もあまりきかなくなったが、どこか畏怖の念を持ち続けながらも父の目の届くところに居る窮屈さから逃げ出すように上京して就職した。

僕が散々あちこちに迷惑を掛けながらなんとか東京で生活基盤を築くことが出来、妻と結婚しようやく落ち着いたと報告できるかと思っていたのもつかの間、2009年には今度は父の金融部門も三洋電機解体のあおりを受け、三洋マンとしての仕事人生を終え、60前にして新天地で働くことになる。
その直後のことだ。父は肺癌が見つかり、既にかなりステージが進んでしまっていること。このままでは余命は半年と突然の電話で知らされた。
その時、妻のおなかには僕の息子が宿っていた。
なんとか孫を抱いて欲しい。そう思い、いろいろな医者を訪ね歩き、父と相談した上、体に負担がかかるが手術をするという決断をすることにした。
手術はなんとか成功したが、すぐに再発、転移。宣告から1年、大阪で苦しい闘病生活を続ける父を毎週のように見舞いに行ったが、病床の新聞、ニュースで映し出されるのは三洋がどんどんと解体されてゆき、父のかつての仲間達も散り散りになっていく姿だった。沢山の三洋電機の父の同僚達がお見舞いに来てくれた。皆三洋での武勇伝を懐かしそうに病床で語り合ってゆく。何かあったら連絡くださいとおいて行く名刺にはもう三洋のロゴはなかった。
サンヨーブランドが完全に消滅するというニュースを僕は父とたまたま病院のテレビで一緒に見た。
父は寂しそうに「もう、なんにもなくなってしもうたなぁ。」と言った。父の目には涙はなかった。ただ、遠い目をして宙を見つめていた。
母がお見舞いの同僚の方とみる為にと持ってきたアルバムの中の色あせた写真には、僕の歳くらいの父と父の同僚の姿がサンヨーのロゴと共にあった。
めくると小さな僕を「三洋電機白浜保養所」という看板の前で抱く父の姿。
何もかもが三洋と共にあったのだ。
そして父の命も尽きようとしている。

しかし、まだもう少しがんばってほしい。あなたに逆らい続けたバカ息子の息子が居るんだよ。親父あんたの孫だ。
この写真の中で、僕をかつて抱っこしたように今妻のおなかの中に居る孫を抱っこしてくれよ。もうすぐ生まれてくるんだから。

いつ意識が無くなるかも分からない危険な状態に入り医師が言う父の余命は息子の出産予定日まで持たないとのことだった。
万が一のことを考え妻のお腹の中の息子の4D超音波ムービーを撮影して動画にして父に見せた。
とても喜び、父は息子の顔を見ながら名前を考えてくれた。
残念だけどもう家族を繋ぐデバイスは三洋製ではなくiPadに代わってしまったけれど。

顔を見たらどうしても生まれるまではと思ったのだろう。奇跡は起き、父は3ヶ月も宣告された余命より闘病をがんばり、自分が名づけた孫の誕生の連絡を聞き、その翌週息を引き取った。

父の生まれ変わりとなった息子はすくすくと育ち3歳になった。

大きくなった息子は外で寝てしまうともう抱っこで運ぶのには骨が折れる。
そんな時の為に、どこに行くにもベビーカーを持ち歩く。軽くて、安くて、丈夫な西松屋のスマートエンジェルだ。

「他のメーカーのもんはなぁ。残念やけどよう壊れんねん。安うて、丈夫。やっぱり三洋が一番や」

子供の頃に手を引かれながら、聞かされた言葉を思い出す。

今息子を乗せてるベビーカー、ええなぁと思ったらやっぱり三洋の人が作ったもんやったわ。オヤジ。

会社って、仕事ってなんなんやろうね。親父。

儚いもんかもしれんけど、でも今日も持ち場でがんばるわ。

あなたが最期まで頑張ったみたいに。僕も息子にはそういう背中を見せたいと思うから。